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維新の真価とは何であろうか?下地代議士の件は日本維新の会について考えさせる。馬場幹事長の手腕については以前から疑問符がついていたが下地氏の件の深刻さを認識しているのだろうか。大阪維新は松井氏のグリップが効いているので不祥事が起こっても軟着陸が可能だ。日本維新の会の場合片山共同代表がいらっしゃるにしても党内運営は幹事長の専管事項である。丸山氏の件や足立議員の暴走に対して何ら言うことなく彼らの立場が日本維新の立場を代表しているような錯覚が生じた。各個の議員が各自の主張を妨げるものであってはならない、しかしその発言の内容・手法が所属団体の総意でなさされたものでないなら党の実務運営者たる幹事長は即座にメディアに対し個議員と党の路線の修正をすべきだろう。一部のネット右翼にもてはやされる発言は多くのフワッとした民意を掴むどころか反発を生む。日本維新は野党であるなら文科省での不祥事や、官僚の暖簾に腕押しの応答により明確な発言をすべきだ。府議会での活発な論戦にこそ維新の価値の生命線ではないか。

橋下氏の存在感と国会での維新の存在感
メディアでの橋下氏の存在感が際立つように思えるのは気のせいかそれとも存在感が感じられない維新の国会議員のせいか。橋下氏の主張は、実は極めてリベラルなもので国民主権の立場から一貫している。ご本人も主張されている通り右も左もなく現憲法の主張する社会観から物事を判断する。ネポティズムも忖度もなく、常に判断基準を一本にして左右の論客の事象に応じて転変する言説を咎めていく。彼の論理が切れ味鋭いのはのはこの首尾一貫した判断基準であろう。政治的に極めて近いという安倍政権であろうと、菅官房長官であろうと非は非として断罪し且つ適当なペナルティーを―例えば真摯なる謝罪ー託宣している。東参議院議員が不見識な国会議員の発言を捉え懲罰としたのは機敏でファインプレー、言い放しを許さず何を言ってもいいという小学校のクラス会の雰囲気を断ち切るべきだろう。しかし同時に桜の会の資料処分問題で官僚があのような下らん発言を同様に咎めないのはいかな対応であろう。確かに問題そのものは下らんレベルであるが資料処分とそもそもあのような発言を許可する国会の気分はいかがなものか。以前なら山中貞則をはじめ多くのうるさ型が党派に依らずかくなるふざけた話を議会で開陳することを許さなかっただろう。このうるさ型の役割を維新は担えれば一定の評価は得ることができる。