〔慰安婦発言問題〕橋下氏の訪米予定に対する危惧と本件に関する個人的な思い
■売春は自由意思による選択に基づかない強制
橋下氏の主張について、史実という代えがたい事実から、まず日本が責められる正当性はない。こう考える人は多いだろう。一方で、これとは区別して、たとえ戦時であれ、強制売春は奨励すべきものではない。また、これは私の持論であるが、私は売春はすべて強制だと思っている。
以下、説明する。
売春は世界中にある。富める国も貧しい国も平等に存在する。それらの国の中で、多くの場合、女性はやむを得なく売春に走る。その根底にあるのは貧困であり、自らの生活を守るため、家族を養うため等様々な理由で「やむなく」売春という仕事を選択するのである。私はこれを「自由意思による選択」だとは思わない。
また個人で売春をしようにも、売春は非合法な商売でもあるので、これを元に荒稼ぎする集団がおり、その集団の支配下で強制的に売春をし続けさせられる女性も後を絶たない。これも、途上国のみに限った問題ではなく、日本にも顕在する問題であることは誰でも知っている筈だ。
生活が苦しい、まともな仕事につけない、家庭環境などの理由でまともな教育を受けていない(のでまともな仕事についけない)、チンピラに生活を握られている、普通の仕事では借金を返せないなど、様々な理由により「やむなく」売春という職業を選ぶ人たちに、本当に「自由意思に基づく選択肢」はあるのだろうか。
さらに社会は、売春が非合法な社会においては売春は犯罪なのであるから、売春をする者は犯罪者だと決めてかかる。刑法上、それは事実かもしれない。しかし、彼女らは望んで「犯罪者」になっているのだろうか。そして、そうした彼女を救済する社会的・地域的。国家的枠組みはあるのだろうか。
無い。
そして社会は売春婦たちを忌むべき存在としてみなし、社会の底辺に追いやる。一度、売春の世界に入ったら、その「汚点」はついて回るため、仮になんとか表社会に復帰してもその事実は一生隠さなければいけない。そうした後ろめたさを抱えながら、彼女らは懸命に生きている。
しかし、そうした社会の構成員である彼女ら売春婦を、社会は救うことも、引き上げることも、しないのだ。そうした大々的な仕組みも、取り組みも、政策も、国策もない。だから彼女たちは「犯罪者」であり続けるしかない。彼女らの中から、表の世界に出て成功する人はほんの一握りだ。
彼女ら売春婦を守るものは存在しない。だが、彼女らを食い物にする組織なら、世界中どこにでもある。そして日本のサラリーマンなどは各国でその恩恵に預かっている。日本国内にも、各国の売春婦が集まっている。勿論、日本人もいる。だが彼女らに、それ以外の選択肢があるのだろうか。
勿論、売春をしている人の理由は様々だ。なかにはおこづかい目当て、欲しいものを買うため目当てに、やむなくではなく自主かつ主体的に行っている人々もいるだろう。そういう人たちは、この際私の考える「売春を強制させられる人たち」の中には入らない。潤沢な選択肢の中から、まさに「自由意思で」選んでいるのだから。
私のこの「すべての売春は強制的である」という考え方が、国際的にどんなに通用する考え方なのかは知らない。しかし、60カ国近くの人々と渡り合ってきて、その中で各国で女性の人権のために働いている人たちと関わってきて、その中でさらに慰安婦問題について活動している人たちと接してきて、私は少なくとも、この考え方に共感する女性は世界中に多く存在すると確信できる。
■軍・民間業者による強制
この考え方を前提に、軍による組織的な強制の問題というものを考えてみる。史実により、また記録により、「日本軍が組織的な強制を行った事実はない」というのは、強制説批判の通論だ。だが、軍ではなくても、軍と利害関係のある団体が仲介するならば、そこに「強制」の概念は成立し得ると私は考える。
つまり百歩譲って、軍そのものに強制連行や強制売春の事実がなかったとしても、軍は非合法な売春組織の「お得意様」でありそのために売春を用立てていたという事実にもまた変わりはないということだ。ここには、顧客としての利用責任(本来なら刑事罰)しか実際は生じない。だが、そんなことは当の売春婦たちには「見えない」。自分が所属する組織がどういう力によって動かされ、自分は仕事をさせられているのか。なぜ自国以外の人間の相手もしなければいけないのか。そこに全くの「自由意思」で売春をしている人間など本当に実在したのだろうか。
そう想像できないだろうか?
■被害者らにとって、「何に」強制されたかは重要なのか
つまり、軍による強制の事実の有無というのは、国際法などの観点から罪を問うために必要なものだから、当の売春という忌むべき活動を行っていた当人からしてみれば、まさに「そんなことはどうでもいい」となるわけである。ここが、訴える側、訴えられる側両者の中で混在してしまっているのだろう。
問題は、いくらで理屈で「強制の事実はない」と訴えても、実際に精神的・肉体的苦痛に耐えた女性たちやその子どもたち、その孫達が抱える「痛み」というのは解消しないことである。その感情によって突き動かされた世界中の女性たち、そのるつぼといわれるのが、ニューヨーク市やサンフランシスコ市だ。
私は、おととい。この歌を初めて知った。そしてまず、これを英語にして世界に届けようと思った。
祖国と女達 (従軍慰安婦の唄)/美輪明宏
美輪さんはやはりすごい。
この動画を見て、私はさらに思い知った。
https://www.youtube.com/watch?v=a9QVn8ZmA4w
この歌の中に「捕虜の女囚も同じ仲間さ」とある。これなのだ。
日本人も、外国人も、みな同じ思いをした、させられた仲間なのだ。
私は英訳の中でこの「捕虜の女囚も仲間さ」の"仲間”を英語で"mates"とした。つまり「同じ囚われの身」であると。国のために尽くした従軍慰安婦を代弁するこの歌にさえ、自分たちが望んでいまここにいるのではないという思いが強く綴られている。それが「慰安婦」の現実だったのだ。
■積年の想いを晴らす機会という危険性
この”積年の想い”を各国の慰安婦が持っていると想像してみればいい。
理屈でどうこうなるだろうか。国際刑事司法上の責任だけの問題だろうか。あるいはお金だけの問題だろうか。無論、この複雑な事情に便乗して金目当てで事実を偽る人間もいるだろう。被害者のふりをして金儲けできると思えば、そういう行動にいる人間がいるのも想像に難くない。
だがそれが全てだろうか。
金目当ての卑しい存在に仕立てあげようと、仕掛ける「軍の強制反対派」もいるかもしれない。一方、本当に金目当てにでっちあげる者もいるかもしれない。一方、そういう存在にもっとも迷惑している真の被害者もいるかもしれない。この実態はもはや掴みようがないくらいに混沌としている。
だが、混沌としているからこそ、決めつけてはならないのだ。万事が万事、理屈通りではないし、想像通りでもないのだと。そうした柔軟な姿勢を持たない人間は、この問題を語るべきではないのだ。物事を更にややこしくするだけだからだ。それを実践したのが橋下大阪市長だ。
そんな人間が、世界中の非難を受けながら、多くの元慰安婦や、その子どもたち、孫達が住む、ニューヨーク市や、サンフランシスコ市を訪れるというのである。もみくちゃにされなかったら、それこそ奇跡ではないだろうか。何かよくないことが起こることを、予感しないだろうか。
私は、その可能性が怖い。
橋下氏が「軍強制否認派」の殉教者となって、日本のナショナリズムに点火することがないよう切に願う。そういう意味では、国務省にペルソナ・ノン・グラータ(歓迎されざるもの)としての通達を出してほしいとすら思う。そのことで、慰安婦問題が政治利用されるのが回避できるのなら。
ご精読ありがとうございました。

